今日は「株式会社女子マネ」の誕生に関するエピソードと、数あるコミュニティビジネスの業界の中で現在のポジションを作りあげるまでの変遷をお伝えします。
オンラインサロンの各社プラットフォームでは現在も日々新しいコミュニティが立ち上がり、著名人やインフルエンサーが運営するサロンも増えています。
しかしその実情はといえば、ヒエラルキー構造は変わらず、会社での上司がインフルエンサーに変わっただけ、という現状だったりします。
そんな中、私たち「株式会社女子マネ」の考える “コミュニティ” はなぜ、ヒエラルキーではなく “フラットな人間関係” なのか?
多くのコミュニティでは、”お金を払いながらのボランティア奉仕” が目立つ中、私たちのコミュニティではなぜそれが “お仕事” として成立するのか?
その背景や根拠をお伝えしていきます。
まずは私のプロフィール、「コミュニティ」を伝えるようになった今に至るまでのお話をしたいと思います。
1982年生まれ、佐賀県出身。両親ともに公務員の実家。
田舎の長男の初孫で、たいへん可愛がられて「われは世界の中心なり」という感じで育つものの、3歳の幼稚園デビューに失敗し、以降ずっとコミュニティに馴染めずに悩み続けます。
大人になったらリベンジだ、と心を無にして小学校を過ごすが10歳のときに父が「仕事が辛い」というのを聞いてしまい…
と絶望。
同時期、同級生の妊娠のニュースが町中をかけめぐります。
それを聞いて、「田舎にいたらヤンキーか公務員と結婚するしかないのでは」と恐れを抱いて18歳で家を出ることを決意します。
大学時代は17種類のアルバイトをして仕事研究。
「楽しそうに働くおとな」に憧れて沢山のバイトをするものの、何をするかではなく自分の仕事観が大切だ、と気づきます。
「他人の反射光では輝けない」
ということを胸に、2005年に求人広告の会社に就職。その後ジョブホッパーになり広告、出版、不動産、美容、教育など6社を経験。
- 2011年よりマッサージ屋、イベント、ライター、貸会議室など複業を行う
- 2016年に株式会社女子マネを友達3人で会社を設立し代表取締役に就任
- 2018年「オンラインサロン超活用術」(PHP研究所)を出版
2019年1月には、かんき出版から『好きなことで無理なく毎月10万円稼ぐ方法』を出版。
同年2月には技術評論社から『人と人とのつながりを財産に変える オンラインサロンのつくりかた』を出版しました。
ダメダメ会社員だった20代の会社員時代から、コミュニティを知ることで子会社を作るまでに働き方も変化しました。
今日これからメインでお話するのは「ダメダメ会社員だった20代の会社員時代から、コミュニティを知る」というところまでのストーリーです。
目次
ヒエラルキー社会の申し子は2011年に「のたれ死ぬ」って思った話
2011年に大きな震災がありましたが、あの時に「私、のたれ死ぬな」って思ったんです。
会社の中では、
というポジショントーク全開で生きていたので、
今でこそ「フラットなコミュニティ」を提唱している私ですが、当時はヒエラルキー社会の申し子みたいな存在だったんです。
そんな私だったので、震災の時にみんなが安否を確認し合ったり支えあったりしている中で、だれも声をかけてくれる人がいないという現実を目の当たりにして、「私、のたれ死ぬな…」って思ったんです。
それでも懲りない2013年、人間関係の限界
さてどういう経緯でそうなったかというと、6度目の転職をした会社でのこと。2013年に入社した会社は当時、全国に40店舗ほどを構えるネイルサロンのチェーン店でした。
そこでの基本的な昇進ステップというのは下記の流れでした。
- ネイリスト
- マネージャー
- 店長
- 社員
- 本社勤務
それまでは全員、アルバイトのネイリストからスタートして、徐々にステップアップしていくのがそこでのルールでした。
なので普通だったらネイリストからまずは店長を目指すのですが、私は入社初日から研修担当の人とケンカしちゃったんです。
その日は結局、創業社長が仲裁に入ってくださり、ケンカ両成敗のような形で終わりました。
ですがその日以降、私は創業社長に直談判するようにしたんです。そしたらある日突然、「新規事業のリーダー」として大抜擢されたんです。
入社して、だいたい半年ぐらいの頃だったと思います。
私は普通のネイリストからのスタートだったんですけれど、いきなり社員の扱いで、しかもリーダーに抜擢されてしまうわけですから、ほかの従業員からすれば「何この人?」みたいになるのは当然ですよね。
それから、たった1か月半後ぐらいのできごとです。
2013年にリーダーとして大抜擢の後、創業社長が会社を売却してしまい、変わりに新社長が就任することになったんです。
社外活動に目覚めるようになったキッカケ
私はそれまで事業のリーダーとして、ほかのマーケティングや開発部の事業部長たちと週一ぐらいでミーティングしてたんです。
それが新社長に変わったことで大きな異変が起きるわけです。
新社長からは放置されるわ、嫌われるような昇進をしたものだから手伝ってくれる人も誰もいないわで、自分で勝手にフラフラしてたんです。
でもそれもいよいよヤバいなっていう頃……、
それが『六本木ビブリオバトル』でした。
半年の活動期間で100名ぐらいの参加者さんたちがイベントに集まってくださるようになり、1~2年の間は定期的に、毎月実施していました。
そんな社外活動に明け暮れていた2014年のある日、よくビブリオバトルの会場として使わせてもらっていた友達の不動産屋さんがクローズした関係で、恵比須に「貸し会議室」を借りることにしたんです。
当時の私の月給が20万円だったのですが、その貸し会議室の家賃もなんと同じく20万だったんです。
それでも2016年の4月頃になると段々と経営も傾き始めて、マイナス3~5万円ぐらいの赤字が出るようになるんです。
さすがにヤバいなと思ってクローズしたのですが、そしたら今度は6月ぐらいに「ここ使わない?」って知り合いの社長さんが日本橋にある貸し会議室を売ってくださり、その年の10月に日本橋をオープンしたんです。
100人が集まるコミュニティだけでは起業はできない
当時はよく「定期的に100人もイベントに集められるんだから、コミュニティに特化して独立することもできるじゃん」とよく言われたりもしていたのですが、当時の私には「売る商品」もなければ、セールスプロセスみたいなのもまったくありませんでした。
商品が一個もないというよりも、起業塾みたいなものを仕入れて知人に売ったりしていました。
そんな試行錯誤、悪戦苦闘する中で転機が訪れるのが2016年の10月頃のお話です。
オンラインサロンの支援事業がスタートする2016年
オンラインサロンがこれから来るよというお話を、現在の(株)女子マネの役員から聞いたのが2016年の10月頃でした。
これまでのイベント活動などで培ってきた知見を活かし、事業の企画を話したら興味のある人が、ばーーって集まってきたんです。
2016年の12月頃にはちょうど会社を辞めたいなと考えていた時期でもあったので、安定的に月商が回ることを確認し、すぐに会社を辞める手はずを整えていきました。
当時、オンラインサロンやコミュニティという業界の中で事業のポジショニングをどうしようかと考えていた時にリサーチで出てきたのが、まずはホリエモンや西野亮廣さんのサロンでした。そこから遅れる形で箕輪編集室など、色々と出てくるんです。
参考:西野亮廣エンタメ研究所
参考:箕輪編集室
当時のコミュニティ市場を見たときに、有名人や人気者の人が、大勢の人を集めるスタイルが目立っていることに気づきました。
元仲間外れ的というか、3歳の幼稚園デビューでの失敗以来、ずっとコミュニティに馴染めずにいた私だからこそ、人付き合いが苦手な人でもコミュニティ運営ができるという「ゼロからポジション」を取ることにしたんです。
スゴイ人や人気者だから人が集まるとかじゃなく、クラスに馴染めないような「隅っこ族」でさえ、ビジョンとコンセプトがしっかりあれば100人を集めることができる! と伝えていけるのは私のポジションだって思ったんです。
私が考えるこれからのコミュニティビジネス
わりと今も静かな生活をしながら仕事をしているので、「隅っこ族」とか言ってポジションを取ったんです。
さらに私はこれから、脱ヒエラルキーと共に「脱・専門家」というのも言いたいなと考えているんです。
それはリンダ・グラットンの『LFE SHIFT(ライフシフト)』という本の中でも言われている通り、スキルの盛り上がりの山が短くなっている、すぐに落ちちゃうというのが理由です。
「キャリアの初期に身につけた専門技能を頼りに、長い勤労人生を生き抜くことは難しい」
これからは「コミュニティマネージャー」や「コミュニティアントレプレナー」の時代だよというのは、もっともっと大きく打ち出していきたいなと思っています。
隅っこ族こそが、この時代のツール(例えばSNSやWeb)を使うことによって、この変化の激しい時代にチャンスが勝ち取ることができるんじゃないかと考えているんです。
よりニッチに、自分が「偏愛できるポジション」をちゃんと形にしていくと、もっと生きやすい形で仕事が生まれると思っているんです。
ポジションでみる「女子マネ」の立ち位置
もう一度復習になりますが、私は本当に30歳まで、人の作ったルール、人の作った場所にうまく馴染むということが全然できなくて。だから1年2年で転職してきたんですね。
なので毎回、会社の中では最下位のポジションからスタートするんですけれど、だいたい社長に気に入られてすぐ上にポーンって行くパターンを繰り返してきました。
でもコミュニティを作る方法がわかったら、自分が作った場所で、自分に合う人だけが来るようになるんです。だからすごく生きやすくて。
本当に、既存の枠の中で生きづらいと思っている人ほどコミュニティをつくる方法を学んだ方がいいと私は思っています。
でも生きづらいからといって世の中を拒絶して、基本的なコミュニケーション能力や発信力がないまま、コミュニティの骨組みだけを作っても、それはまるで藁(わら)の家といいますか。全然ダメですよね。
自分の考え、自分のポリシーを明確にして発信していくということは、今後のコミュニティ時代には必ず不可欠になります。
隅っこ族だからこそ、コンセプトとビジョンによって人を集め、影響力を発揮するということが求められますし、それこそがこれからの時代のコミュニティです。
特に私が提唱している「コミュニティマネージャー」「コミュニティアントレプレナー」については、ほかのコミュニティビジネスとは一線を画す取り組みがあります。
フラットな人間関係で、仕事として続けられるコミュニティ
私が株式会社女子マネとして伝えていく、これからのコミュニティビジネスというのは「フラットな人間関係」×「仕事として続けられる」というポジションです。
会社やオンラインサロンなど、さまざまなコミュニティの形はありますが、今もっとも世の中的に典型的なスタイルのひとつが「ヒエラルキー型」×「ボランティア」です。
横軸で組織がヒエラルキーなのかフラットなのかを見ます。そして縦軸でそこが仕事として続けていける場所なのか、それともボランティア的にかかわる場所なのかをチェックするマトリクス図です。
著名人やカリスマ型のオンラインサロンなどでは、ファンが憧れて心酔するコミュニティができあがっているところもあります。
また、ヒエラルキー構造の中で仕事として続けていくコミュニティが、いわゆる「会社」という組織です。生活していく上で、イヤでも続けていく必要があると思わせるポジションです。
一方「箕輪編集室」のように、フラットな人間関係の中でボランティア的な活動をしながら、楽しさやチャンスを掴みとることができるコミュニティもあります。
ただし、チャンスを掴まない限りは仕事としては続けていくことができないコミュニティの形です。
楽しさややりがいを求めるだけの人の方がより適切かもしれません。
ここでいう大義名分というのは、「社会的に必要な仕事」という想いがあり、ワクワクと仕事ができることを指します。
特にこれまで会社員としてコミュニケーション能力は仕事を通して培ってきたけれど、自分で旗を立て、自分が立てた企画に必ず3人以上の仲間やお客さんが集まるような、小さな影響力から作っていきたい方には、「マイクロインフルエンサー講座」をお勧めしています。
別で運営しているサイトになりますが、現在絶賛進行中のセミナーレポをかなり詳しく掲載しています。
誰かの権威やお墨付きに寄り掛かろうとするのではなく、
自分がやりたいと思ったことを企画にして、3人のお客様や仲間を集められるようにする
というところから目指したい方は、ぜひこちらの記事を読んでみてください。
「自由な働き方と自分らしいコミュニティを手に入れる」マイクロインフルエンサー講座vol.1
「コミュニティのコンセプトのつくり方」マイクロインフルエンサー講座vol.2
「ビジョンで人を巻き込むコミュニケーション術」マイクロインフルエンサー講座vol.3
「オンラインサロンのつくりかた」出版記念
もくじ&第1章と活用方法レクチャー音声
1月26日に発売の「オンラインサロンのつくりかた」(技術評論社)の第一章と解説音声を、1月25日から配信いたします!
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